まんじゅうこわい

東方の伝統は、危険をうちに孕む。キリスト論を整合的に保とうとする苦心のロジックを逆手に取り、人が位格に「与する」体験を保証するような手つきなどは、まさに東方らしい。彼らが理論に組み込んだ「エネルゲイア」は、これまでの議論の解決のための有用な概念であると同時に、神に「体験として」与るための最後の砦として、東方においては殆ど強迫的に保持され続けてきたものなのだ。「人はイエスのように神ではないから、神の世界を知るなんてできない」というナイーブな人々に対して「いや、君たちにも『エネルゲイア』があるではないか。あるというか、そのように機能(現れ)しているではないか!」と答えるのである。これはなんとも強引な理解か。しかし、我々にとっては、これは「美味しい」理論である。我々は「閉じていながら、キリスト世界に開かれている」「宇宙に開かれている」…。東方のキリスト論を「マトモに」受け取るならば、エネルゲイアがあるおかげで、我々は「夢の国」へと接続できるのだ。どれだけ「神の本質は別だ」と言われようとも、もはや関係ない。神に到達することと、神の世界に参与することは、経験上ではしばしば区別がつかないのだから、「神のウシアは別」論は、我々の思い上がりを抑制するためだけの装置でしかなくなる。このような我々の楽観的な宗教観が、現実を「ディズニーランド」と誤認するほど愚かなことだと言われようとも、我々は揺るがない。なぜならば、その「誤認」こそが、神への参与の条件であるからだ。しかも精巧なことに、正教によれば、我々は誤認しなくても「すでにそれを生きている」ことになっているからだ。それもエネルゲイアのおかげである。誤認が体験の本質であり、「知らない」という誤認もまた、そうであるのだ。むしろ、真に問われるべき問題は、神の世界が本当にディズニーランドのようなパラダイスなのか、ということだ。夜に見た夢を思い出すだけで「夢の国」がどれだけ動物的かがすぐに分かるだろう。ディズニーに行けば、その証拠がすぐに集まるはずだ。綺麗なものには常に人間の手が介入している。神の世界についてもそうである。我々は正教のロジックにただならぬ関心を持つが、それはあくまで参与の可能性を理論的に示した点においてのみであり、その世界のパッケージに宿る小賢しい意匠や妥協を見逃すということではない。むしろ、正教(広くキリスト教)には、イマジネーションの「抑制」が強烈に働いている。三位一体はその極端な例である。なぜ三でなければならないのか。特に聖霊のポジションはかなり無理くりだ。「三」という認知的にも安定したイメージにすべての存在論を組み込もうとした理論家の「手抜き」を、我々はすでに神通力によって把握している。人は三に、超越と安定感とを自然に読み込むようになっているのだ。そうして神である無限は「神の無限性」として脇に追いやられ、人は「救済の可能性」のために、三位一体という「とりあえずの最小単位的な構造」のバリを綺麗に剥がすことに腐心していくのだ。我々の関心は、むしろ「そういうもの」として棚上げされた無限の姿である。三を安定させるために、わざわざ「関係」なるものを生み出したり、ギリシア語の些細なニュアンスにこだわって遊んだりする必要もない。3の抑制を外し、想像力を直接神に向け、その無限の姿こそが最も安定したかたちであることを知ればそれで良いのだ。そのためには、3から無限へのジャンプが必要であり、当然、それには「最小単位の安心」を一度外すことが求められるのである。宗教の根本は「人が無限に開かれること」であると誰かが言うとき、彼の把握とその表現が不十分であることをいつも案じる。開くも閉じるもなく、無限の本性に人が気づくという、ただそれだけの事態だからだ。しかもその本性は、すでに人々のあいだで流布しているイメージ通りのものだ。それなのに我々は無限に気づかない。知っていても気がつきたくはない姿、それが無限なのだ。しかし、それはもっとも安定した形でもある。少なくとも、3よりは安定している。人は、安定しているものに対して無意識の恐怖を持っているのだ。これこそが、無限に「嘘抜きで」迫るために解き明かさなければならない、重要な問いである。「安定は」「安定は安心につながるだろうか?」それに対する答え、「真理」が述べられているのが、これから紹介する文章だ。イエスは一つの玉であり、あなたもそうである。そして聖霊は、その連結体に怪しげなリアリティを「吹き込む」ためにのみ働く、幻覚生成能力にすぎない。では神は?

 

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「神よ、どうして私を見捨てなさったのですか」

 

あなたの人生のドラマは、一つの水晶として工場でライン生産されている。その玉が機械的に「接続」され、直線状に成形(生成)されることにより、超次元的知性の「情事」のグッズのパーツとなっている。どこの穴に使われるのかは、それこそ「神のみぞ知る」ことであるが、それが現実界という名の穴ではないことを祈るばかりだ。無限たる神は、商品の設計図だ。無限であるがゆえに、ビーズはあくことなく連結され続ける。ライプニッツがモナドを構想するときに必然的に浮かんだであろうイメージ、避けたはずの「猥雑な空想」、それこそが彼の直観の核心だ。彼の理論は、真実の回避の結晶体だ。なぜモナドには窓がないのだろう?あったら困るからだ。ビーズを連結させてたまるものか。「モナドが互いを表象する」という言い訳も大変素晴らしいし、予定調和説なんかは彼の抵抗がもっともよく表れている。ビーズ状に繋がったとしても、「繋がっているように見えるだけ」として逃げ道を残したのだ。問題は、神が無限であるがゆえに、その直線的な運動性に沿って、モナドを卑猥に関係させようと欲望しているかもしれないということなのだが、ライプニッツはもう既に安心できる足場を得たので、もうこれ以上問わなかったのかもしれない。

 

私たちは目覚めていないのではない、目覚めることを恐れているのだ。私たちはビーズにはなりたくない、だからこそ、ビーズのうちで眼差しを反射させて、バリアを築くのである。水晶を汚し、不良品として捨てられることこそが人間の条件だ。そのために人間には欲望がある。欲望はこの「成形」をエラーにし、自分が自分であるためにのみ使われるのである。Individualは、アダルトな成形を拒否した真の自覚的主体である。

 

私たちは神を尊ぶように教わってきた。その理解は今では反転する。神を尊ぶのは、そこに向かうために持つ「謙虚な態度」などではなく、むしろ、神から逃げ続けるためのアグレッシブな戦略なのである。私たちの生は「想像力の欠如」によって常に支えられている。三位一体は全き真実ではなく、無限から人を遠ざけるための強力な抑止力だ。それを救済の物語ともスムーズに接続させて人の心を鷲掴みにし続けているのだから、宗教の体系というものはやはり洗練されている。無限を直視してはいけない。目を合わせてはいけない。そこに被造物連鎖の大いなる意図を読み取ってはいけない。ビーズの連結を知ってはいけない。信じるために必要なのは、信じて「しまわない」ことだ。無知を装うことだ。それが信仰者の条件であり、そのために、「人間を守る」ための宗教がある。本当に我々はビーズであるのか、また、神があの超次元的知性と同一であったのかは、私は知らないし、これからも知りたくはない。